黒川金山の由来

塩山市文化財ガイドブックより

「塩山市文化財ガイドブック:ふるさと塩山」昭和62年塩山市教育委員会発行より

大菩薩峠の北に鶏冠山という山があります。この山の南を三条(塩山市と丹波山村の境)に流れる黒川谷に沿って黒川金山はありました。金の採掘は武田信虎の時代に始り、信玄の軍用金の多くはこの黒川金山から産出したと伝えられています。今でも黒川金山跡を訪れると、坑道が残っており「黒川千軒」と言われた坑夫の住まいや、作業場の跡や、製錬に使った石臼が散在しています。(窪田注参照)厳しい条件のなかで、どれいのようにひどい労働を強いられた悲しい坑夫の生活が目に浮かんできます。その坑夫を使って採掘していた役人を金山衆といいます。黒川金山にも依田、中村、風間、田辺、古屋、大野、保坂、池田などの金山衆が上萩原から於曽、熊野に居住して金の採掘を行ない、金山の経営をしていました。金山衆は当時最高の技術をもった職業集団であるとともに、戦があると軍役衆とsちえ出陣して、とくに工作隊的役割を果たしていました。この黒川金山も天正4年には金の採掘が減少して廃鉱になったと伝わっていますが、一方甲斐国志をみると「金山ノ盛ナリシハ慶長年間大久保長安ノ奉行タリシ頃ノ事ナルベシ」とあります。これは大久保長安は武田氏から徳川氏に仕え、徳川氏の命によって石見銀山や、阿部金山を採掘していたので、そうした技術者を黒川にも招いて掘っていたようです。更に慶長年間大久保長安は佐渡金山奉行にもなりますが、このときに武田時代以来の大久保長安の仲間が一緒に佐渡に渡って活躍しています。なお、現在は東京都の水源林のため、金山の採掘は一切できないことになっています。

(窪田注記:本文中では金山跡がかなり残っている記述になっていますが、現在はかなり盗難、自然崩壊で遺構という表現が適切な状態です)

今村教授の解説

今村啓爾先生の解説(東京大学教授:黒川金山遺跡研究会考古リーダー)平成8年12月12日「読売新聞」より

多摩川の源流である山梨県東の山岳部に鶏冠山と呼ばれる山がある。その東面、黒川谷の森林の中に眠っていたのが、戦国武田氏の軍資金を支えたとの伝説に言われる「黒川千軒」の金山の遺跡である。今は訪れる人も希な深山であるが、足を踏み入れると、居住地のために築かれた広大なテラス群、半ば埋もれ残る坑口、散乱する鉱石粉砕用の石臼が過去の繁栄を語りかけてくる。

鉱山町の規模は、黒川の谷に沿って上下600m、最大幅300mにも及ぶ。発掘面積はこの広大な遺跡のわずか300分の一にしかならなかったが、坑道、鉱石の粉砕作業場、金の溶融作業場、管理者の居住地・墓などが確認され、能率的に鉱山町の構造が解明された。当時の生活を彷彿とさせる様々な遺物類−土器・陶磁器・銅銭・キセル・かんざし・刀子・はさみ・火打ち金・つりばり・碁石・鉄砲玉・粉挽き臼・茶臼・石仏台座・五輪塔などが出土した。

陶磁器から鉱山町の年代を推定すると、16世紀前半には確実に出現しており、17世紀中頃に姿を消した。全盛期は伝説にいうように武田信玄の時代である。

近年、遺跡の発掘と古文書による歴史学の共同研究が盛んになっているが、黒川金山の調査ではこの協力がとりわけ成功を収めた。遺跡現地の発掘結果は、断片的な古文書をつなぎ合わせて推定されたこの鉱山町の盛衰とよく一致する。考古学が鉱山の規模や物質文化、技術面を解明したのに対し、古文書は金山の社会や組織を解明し、それぞれが得意とする分野で力を発揮することにより、この鉱山の歴史を生き生きとよみがえらせた。

考古学には対象とする時代や遺跡の性質によって研究の鍵となる種類の遺跡があるが、鉱山の考古学の場合、それは鉱石粉砕用の石臼である。地味な遺物であるが、どの鉱山でも大量に用いられ、固い鉱石の粉砕作業で消耗して捨てられ、残っている。

この点に注目した私は全国20以上の鉱山遺跡を訪れ、鉱山臼を調査してまわった。この結果、はじめは鉱石を自然の平石の上に置き、手に持った磨り石ですり潰していたが、やがて回転式の臼がこれに代わり、17世紀初頭にはこれに軸受けが採用されるという発展過程が明らかになった。黒川の石臼は第1の段階のものを主とし、第2の段階のものがすこしある。鉱石の粉砕後の流水による選鉱で得られた金粒は、日常生活で用いられたのと同じ土器の皿で溶融され金餅状にされた。

このような粗末な道具立ては、当時まだ鉱山用具として特殊なものが発達しておらず、試行錯誤で金の採掘、精練が開始されたことを物語る。幸運にもこの鉱山の鉱石が、石英脈のなかに純良な金粒を含むものであったとが、このような原始的方法にようる金の精練を可能にしたのである。最終的な金の溶融作業が小グループごとに行われていたことも、金山衆という鉱山稼業者が豪農と未分化な存在であったこととともに、近世の専門化した鉱山経営とは異なる中世的側面を見せている。

16世紀末に急速に衰退し、有力金山衆が去ったこの鉱山は、江戸時代に入るともはや金は産出せず、残った金掘りたちは土木工事の請け負いなどで生計を立てていた。しかし、この地で開発された技術は各地の鉱山に応用され、17世紀の日本を世界有数の金銀産出国に変えるのに貢献した。江戸時代初期の佐渡金山奉行は歴代甲州出身者で占められたし、黒川出身の永田茂右衛門の用水工事における活躍は、この鉱山で生まれた技術が水田開発にも応用されたことを物語っている。


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