ころ柿の由来
武田信玄の時代から栽培されていたころ柿


ころ柿は「枯露柿」という漢字を当てていますが、この源語はむかし農家のの庭先に皮をむいた柿をならべ、天日で乾燥させるとき、柿全体に陽があたるように適当な間隔をおいてコロコロ位置を変えることからその名が出たと言われています。

東山梨郡誌によると、武田信玄の時、乾柿(ほしがき)を奨励し、美濃国(岐阜県南部)蜂屋柿を移植したのが始めてであると言われています。その後、慶長2年に浅野長政が本州に封ぜられ、土地の検地を命ずるにあたり、信玄の遺策をついで柿の増産を奨めました。これが第二次の奨励であるといいます。その後松里の乾柿は年々製造を改良し、江戸時代には年々の献上物となりました。甲州八珍果とか峡中八珍果と呼ばれ、ぶどう、なし、もも、かき、くり、りんご、ざくろ、くるみ(またはぎんなん)の中に数えられました。果物が経済興隆に役立つと考えられたのは江戸時代になってからです。

また松里は栗の産地もあり、栗の形状は大きく、品質もよくとくに搗栗(かちぐり)にすると良いものができました。武田信玄は元亀年間に松里の栗は甘味が多く搗栗として、他にこれだけの品がないことから柿と共に増殖を奨励しました。信玄は万一に米穀の不作の場合は、この栗を以って兵糧にあてたといいます。

ころ柿の産地として形成されたのは大正時代のことで、甲府盆地の東部および甲府市の周辺に柿の栽培が盛んになったころからです。現在では松里地区が主な産地となっています。57年度の生産量は430トン、生産額は4億6400万円(松里果実農協調べ)となっています。生産量の約80%は京浜、中京、関西地方に出荷され、残りの約20%は県内各地に出荷されて、年末年始の贈答品などに用いられています(資料甲斐路ふるさとの特産ほか)

引用先:ふるさと塩山 塩山市文化財ガイドブック 昭和62年


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